阪神淡路大震災から20年が経ちました
僕は大阪に住んでいたので特別な被害は無かったのですが18歳で初めて経験する震度5の揺れに大変驚きました。
当時の事をちょっと書いてみます
地震当日、テスト勉強か何かで徹夜をしている時でした
・・・・ゴゴゴ・・・・
ゴーーーー!!
「ん?何の音?」と思いながら10秒ぐらいすると下からガンッ!と突き上げられるようなショックを受けました
一瞬、宙に浮いたんじゃないか?と思えるほど
そして本気で「これ、家が倒れるんじゃないか!?」と思いました。
1階で寝ていた親父が大急ぎで僕らが寝ている2階に走ってきて
「起きろ!地震だ!」
と、言ったが既に皆起きていたっけ
テレビをつけると大地震が起きたことが何となくわかりました。
火事で真っ赤になっている神戸の街・・・
はじめは死者3人とかって報道されていて
「ああ、そんなもんなんだ・・・」
そう思っているとみるみる死者の数が増えていきました。
当時、僕はスーパーで品出しのアルバイトをしていたのですが友人から
「阪神大震災でダメージを受けたJRの橋脚の補修などをするアルバイトがあるからこないか?」
そう言われてお金の為か”復興に少しでもチカラになれるなら・・・・”と考えたのか曖昧ですが事情を話してスーパーのアルバイトをやめ、土木のバイトをすることになります。
震災から一週間も経った頃、テレビでもそろそろ普通のバラエティ番組などが少しづつ放送され始めてたような・・・
そんななかで友人と一緒に六甲道駅周辺の橋脚の補修作業の為に初めて神戸の街に電車で向かいました。
尼崎を超えて西に向かう電車の窓から見える光景が変化していく
青、青、青
見える限りの住宅地がほとんどブルーシートが掛けられていていた
残った家財を雨や泥棒などから守ろうとしているのだろうか?
テレビで見る光景と全然違うじゃないか・・・
友人と電車のなかでその光景を見つめ
「なんだよこれ・・・・」
と言ってあとに言葉が出なくなりました。
確か、六甲道まで電車がいけなくて途中からバスに乗り換えてなんとか現場入りしたと思います。
一生懸命に働きました。
セメントを担いで歩いて、はしごを登って・・・
友人と休み時間になると歩いてコンビニまで移動
途中にある家はことごとく一階が潰れていました
花が手向けられ
”◯◯子へ、もし生きていたら家族は◯◯公民館で暮らしている。これを見たら来て欲しい”
そんなメモがあちこちに貼られていました
僕らは折れまがった10階建てぐらいのマンションの駐車場で昼ごはんを食べ
ふと空を見上げると青い空と折れ曲がったマンションの上層階が覆いかぶさるように見えました。
今考えるとなんでそんな危ないところで食事をしていたのかはっきり思い出せません
初めて電車の窓からあの光景を見た時
心拍数があがり、膝が震えるような衝撃をうけましたが、ほんの二週間もするとその異様な環境や光景にすっかり慣れていました。
3月の終わりまで約2ヶ月の間、仕事とはいえ沢山の悲惨な光景を見てきました。
あれから20年が経ちました。
なんとなく生きていたら20年も経ってしまいました
これは被災されて無くなった方が生きたかった20年かと考えると
”もう少ししっかり生きないとな・・・”
そんなように思います。
防災についてしっかり考えて、あの日のことを忘れないようにしたい
それが被災された方々への弔いになると信じて・・・
追記
神戸市が当時の写真を大量に公開しています。
1.17のつどい 東遊園地に手を合わせに行ってきました。 - beru's blog