
友達と飲みに行くなら、鳥貴族で十分だと思っている。
こう言うと、たまに「けち」だと思われる。違う。安く済ませたいわけじゃない。値段の話ですらない。ただ、友達とくだらない話をして笑うのに、店の格は関係ないだろう、と思っているだけだ。
でも最近、自分がなんでこの感覚に固執しているのか、ちゃんと考えたことがなかった。
辞書的には「わざわざ」「貴重な機会を使って」というニュアンスらしい。
悪い言葉じゃない。むしろ相手を気遣うときに使う言葉だ。
なのに、なぜか自分はこの言葉に、ちょっとした違和感を持っている。今日はそれを掘ってみる。
子どもの遊びに「点数」はなかった

小学生の頃、めんこをして、意味もなく路地裏を歩いて、かくれんぼをして、駄菓子屋の前で立ったままゲームをやって、自転車で目的地も決めずどこまでも走った。
あれ、全部「何かを達成するため」の遊びじゃなかった。その行為そのものが遊びだった。
「今日の遊びは何点だった?」なんて誰も考えていない。つまらなかったら「今日おもんなかったな」で終わり。また明日遊べばいい。それだけのことだった。
大人になると、「遊ぶ」が「会う」に変わる。今、友達と会おうってなったら、だいたい「飲みに行こう」「飯食おう」「カフェ行こう」になる。特に大人同士だと、誰もが楽しめそうな無難な選択に寄っていく。
気づけば「友達と遊ぶ」じゃなくて、「飲食店を舞台に会話する」に変わっている。悪いことだとは思わない。ただ、選択肢が最初からその形に絞られている感じはある。
理由のひとつは単純で、時間が減ったからだと思う。子どもの頃は今日がダメでも明日がある。大人になると、休みは週に1日か2日。仕事、家庭、いろんなものに時間を持っていかれる。
だから「せっかくの休日」「せっかく空けた時間」という感覚が強くなる。貴重な時間を使うんだから外したくない。その気持ちが、無難で確実な選択を選ばせる。
もうひとつの理由は、大人の集まりには責任者がいることが多いから。誰かが企画して、店や場所を決めて、それが「おもんなかった」と言われたら、幹事がその責任を感じる。だから次第に、誰も嫌がらない、失敗しない、疲れない、暑くない、料理もそれなりに美味しい店に落ち着いていく。安全第一の遊びになる。
これ自体は、大人として当然の学習だと思う。ただ問題は、この先にある。
「せっかく」が楽しさに何かを足させる

「せっかく大阪まで来たんだから、もう一軒」
「せっかくここまで来たんだから、もっといい店」
「せっかく集まったんだから、充実したことをしなきゃ」
「せっかくの休日なんだから、どこか行かなきゃ」
この「せっかく」という言葉、よく見ると、今ある楽しさを認めるための言葉じゃなくて、今ある楽しさに何かを追加させるための言葉になっている。
友達と安い店で何時間もくだらない話をして、それだけで楽しかったとしても、「せっかく集まったのに、こんな店でいいの?」という声が、自分の中からでも、誰かの口からでも、出てくる。
その瞬間、さっきまで十分だった時間が、急に「物足りないもの」に変換される。何も変わっていないのに。
自分は「友達と楽しくしゃべりたい」からご飯に行く。その場合、料理や店の雰囲気は目的じゃなくて、会話のための場所でしかない。だから鳥貴族で十分だと思う。
一方で「美味しいものを食べたい」「高級店を楽しみたい」「雰囲気のいい店に行きたい」という欲求そのものは、全然否定しない。それはそれで、一人でも十分楽しめるものだと思う。
つまり、
- 友達と会って話したい
- 美味しいものを食べたい
- 高級な店を楽しみたい
- 特別な体験をしたい
これ、全部別の目的なんじゃないかな、と思う。それを毎回ひとつのイベントに詰め込もうとするから、「友達と会う」だけでは足りない気がしてくる。目的をひとつに絞れば、鳥貴族の安い椅子でも十分満たされるのに。
いや、これで本当にいいのかな、とも思う。誰かと特別な体験を分かち合いたいという気持ちも本物だし、それを「目的の混同」って切り捨てるのは、ちょっと乱暴な気もする。このへんは、まだ自分の中で答えが出ていない。
「せっかく」という発想が強くなると、人は「今、何が足りないか」を探し始める。
友達と楽しく話している。天気がいい。料理も普通に美味しい。知らない道を歩いている。夕焼けがきれい。
それだけで十分なはずなのに、「せっかくなんだから、もっと何か」と、足りないものを探しにいく。
不幸の種を探している。
せっかくさんは、不幸探しの名人なんじゃないか?
でも、たぶんこれも一方的な言い方だ。「せっかく」を使う人が悪いわけじゃない。高い店に行きたい人が悪いわけでも、特別な体験を求める人が悪いわけでもない。むしろ、自分も知らないうちにそうなっていたんじゃないか。休日に予定を詰め込んで、「せっかくの機会だから」と言いながら、結局どこにも本当には満足していなかった日が、何度もある気がする。
心理学の話を少しだけ

このあたりの感覚と重なる研究がいくつかある。断定はできないけれど、参考として置いておく。
時間の豊かさ(Time Affluence)
ハーバード・ビジネス・スクールのアシュリー・ウィランズらは、時間とお金のどちらを優先するかという安定した傾向を測る尺度を開発し、その傾向が強い人ほど幸福度が高いことを示している。大学卒業という人生の転機を経た約1000人を1年間追跡した調査でも、時間を優先する人ほどより幸福だったという結果が出ている。
(Whillans, Weidman, & Dunn, 2016, Social Psychological and Personality Science/Whillans, Macchia, & Dunn, 2021, Science Advances)
時間が足りないと感じること自体が、幸福感を削っていくというのは、なんとなく身に覚えがある。
同じ著者(アシュリー・ウィランズ)は、この論文とは別に、一般読者向けの本『TIME SMART(タイム・スマート)――お金と時間の科学』(柴田裕之訳、東洋経済新報社、2021年)も出しています。今回引用した論文そのものではありませんが、テーマは地続きです。
サヴァリング(Savoring)
ロヨラ大学シカゴのフレッド・ブライアントが提唱した概念で、「今ある良い経験に注意を向け、それを味わい、高める力」と定義される。
(Bryant & Veroff, 2007, Savoring: A New Model of Positive Experience)
目の前の小さな幸福に気づいて、それをちゃんと味わうこと自体が、ひとつの技術ということらしい。「せっかく」で足すことばかり考えていると、この技術を使う機会がどんどん減っていく気がする。
マキシマイザー研究
スワースモア大学のバリー・シュワルツらによる研究。最善の選択肢を常に求めようとする人ほど、幸福度・楽観性・自尊心・生活満足度との間に負の相関があり、うつ傾向・完璧主義・後悔との間に正の相関があった。
(Schwartz et al., 2002, Journal of Personality and Social Psychology, DOI: 10.1037/0022-3514.83.5.1178)
「もっと良い選択肢があったんじゃないか」という発想そのものが、満足度を下げる方向に働く。「せっかく」の正体は、これに近いのかもしれない。
どれも「この気づきが正しいと証明している」わけじゃない。ただ、自分が感覚的に思っていたことと、方向性が重なる研究があるっていうのは、ちょっと安心する。
足元に咲いている花

足元に咲いている小さな花に気づかない。
遠くの有名店。高級料理。有名観光地。特別な体験。そういうものを求めること自体は、別に悪くない。自分もツーリングで知らない土地の店に行くの、めちゃくちゃ楽しい。
でも、
「友達とくだらない話をして笑えた」
「知らない路地を歩いて楽しかった」
「自転車で目的もなく走った」
「天気がよかった」
「帰り道の夕焼けがきれいだった」
こういう小さな幸福を、それだけで価値あるものとして受け取れなくなったら、それはちょっと本末転倒なんじゃないかと思う。
たくさん体験することが豊かさなのか。それとも、今あるものをちゃんと味わえることが豊かさなのか。
たぶんどっちも豊かさで、正解はひとつじゃない。ただ、自分は最近、後者の方をだいぶサボっていた気がする。FIREして時間はあるはずなのに、結局何も味わっていなかった、ということが何度もあった。
その時間を味わえることは、
別の能力なのかもしれない。
自分も、この記事を書きながら「せっかく」を何回も言いそうになった。たぶん今日もどこかで言う。
だから、これは誰かを説教するための記事じゃない。自分に向けた問いかけみたいなものだ。
最後に、これを読んでいるあなたにも聞いてみたい。
今日、足元に咲いていた幸せ、なんかありましたか?
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