
登山をする人や、アウトドアが好きな人と一緒にいると、なぜか心地いいと感じることはないでしょうか。
文句が少なくて、ちょっとしたことにも「ありがとう」と言えて、トラブルさえどこか楽しもうとする人たち。
先日、友人とキャンプに行き、焚き火を囲みながら「どうして自分は登山をする人に惹かれるのか」を言葉にしてみました。
その夜、火の揺らぎを眺めながら思い出したいくつかの場面が、バラバラだった経験を一本の線でつないでくれた気がします。
この記事では、焚き火の夜に浮かび上がった記憶をたどりながら、「なぜ登山者やアウトドア好きに惹かれるのか」を、ひとりの49歳の専業ライターとして、静かに整理してみます。
焚き火の前でふとこぼれた一言

先日、友人と二人でキャンプに出かけた。
あたりが暗くなり、焚き火だけが顔を照らす時間帯、薪がはぜる音を聞きながら、ふと口から言葉が漏れた。
「なんで俺、登山をする人にこんなに惹かれるんだろうな」
友人は、火ばさみで薪の向きを直しながら、少し笑ってこう言った。
「お前自身が、自分の足で歩いてきたからじゃないか?」
その一言をきっかけに、心のどこかにしまい込んでいたいくつかの場面が、静かに蓋を開け始めた。
テントのペグを打ちながら見えた「感謝の解像度」

登山を始めたばかりの女性に、自分のテントとシュラフを貸したことがある。
風の冷たい日で、地面は少しぬかるんでいた。
私は泥にまみれながらテントを広げ、ペグを打ち込んでいた。
その横で彼女がぽつりと言った。
「ありがとう。一緒にやってくれて」
設営が終わり、予備のシュラフを手渡したとき、彼女は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとう。貸してくれて」
その「ありがとう」は、いわゆる社交辞令とは違う響きがあった。
これからこの布一枚に自分の命を預けて眠るという切実さと、その準備を他人が担っていることへの、まっとうな重みがこもっているように感じたのだ。

一方で、登山をしない友人を同じように誘ったときは、まったく違う反応だった。
「意外と設営に時間かかるんだね」「不便だなぁ、もっと楽だと思ってた」
貸してもらっていることや、手伝ってもらっていることに対する想像力が、驚くほど薄く感じられた。
善悪の話ではなく、単純に「見えている範囲」が違う。そう思わずにはいられなかった。
たぶん、登山をする人は「自分でやる大変さ」を、体に刻み込むように知っているのだと思う。

道具を揃えるのにかかるお金も、一人で設営する体力的なきつさも、実感として分かっている。
だからこそ、やってもらったことの「価値」が、曖昧な言葉ではなく、はっきりとした輪郭を持って見える。
その解像度の高い「ありがとう」に、どうしようもなく惹かれてしまう。
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悪天候の中で問われる「誰のせいにしないか」

焚き火を見つめていると、土砂降りの雨を思い出した。
以前、山のテント場で、夜から明け方にかけて天候がどんどん悪化していったときのことだ。
予定していたルートは諦めざるを得ず、一日停滞することになった。
テントの外は風の音と雨粒の音だけで、やり場のない時間がゆっくりと積もっていく。
こういうときに、誰かを責めるかどうかで、その人の「ハンドルの握り方」が見える気がする。
「なんでこんな天気なんだよ」と空に怒る人もいれば、
「連れてきた人の計画が悪い」と、誰かの判断のせいにする人もいる。

一方で、静かにこう言う人もいる。
「さて、この状況でどう過ごそうか」
「ここで一晩ゆっくりするのも悪くないな」
現実をねじ曲げようとするのではなく、「今ここ」を受け止めたうえで、自分の機嫌を自分で取りにいく。
自分のハンドルを、誰かに押しつけない。
そういう人と一緒にいると、不思議と疲れない。
むしろ、何が起きても「なんとかなる気がする」安心感すら覚える。
登山やアウトドアが好きな人の多くは、こうした「どうにもならないもの」と向き合う時間を、何度も重ねてきた人たちなのかもしれない。
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5.11aの岩壁と、年越し宗谷での咆哮

焚き火の火の粉が夜空に飛んでいくのを眺めていると、自分が味わってきた「修羅場」も思い出した。
フリークライミングで、5.11aをRPしたとき。
指の皮は擦り切れ、ホールドをつかむたびにじんと痛みが走った。
一歩間違えれば墜落するかもしれない高度感の中で、頼れるのは自分の保持力と判断だけ。
トップロープの安心感とはまるで違う、全身がこわばるような恐怖と向き合う時間だった。

冬の北海道を、W650で16時間走り続けた、あの年越しも忘れられない。
寒さと疲労で指の感覚は消え、ハンドルを握っているのかどうかも曖昧になっていく。
「何やってるんだ俺は」と心のどこかで思いながら、それでもアクセルを戻せない。
弱音を吐きそうになる自分に腹が立ち、ヘルメットの中で喉が切れそうなほど叫んだ。
「ああああ!!! くそぉーーー!!!」
やっとの思いで辿り着いた宗谷岬で、自分の手で年越しそばを作った。

震える指で火を点け、湯を沸かし、麺をほぐしていく。
あの一杯は、誰かに用意してもらった贅沢ではなかった。
自分の意志で走り続け、自分のリスクで死の淵からかろうじて掴み取った、「生」の味だった。
こうした経験が特別だと言いたいわけではなく、ただ、自分が惹かれる人たちも、それぞれの場所で似たような「一線」を越えてきたのだろうと感じるのだ。
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「迷惑になるかもしれないけど、やってみる」と言える人

焚き火の炎を見ていると、過去に好きになった女性の顔も浮かんだ。
彼女は登山者ではなかったけれど、根っこの部分で同じ匂いを持っていた人だ。
山や自転車のポタリングに誘ったとき、彼女は少し不安そうにしながらも、まっすぐな目でこう言った。
「迷惑になるかもしれないけど、やってみる!」
相手に負担をかける可能性を自覚していながら、それでも「やってみたい」という気持ちを捨てない。
その健やかさに、強く心を動かされた。

どんなに安い居酒屋に連れて行っても、彼女は不満げな顔ひとつしなかった。
むしろ「この店のここが良いね」と、小さな楽しみを自分から見つけようとする。
用意された華やかさを受け取るのではなく、その場にあるものを使って、自分なりの豊かさを組み立てていく。
そういう姿を見ていると、「ああ、この人も、自分のハンドルを自分で握っているんだな」と思わずにはいられなかった。
自分の足で立とうとする人たちへの、静かな敬意

工業高校を卒業してから、いくつもの職場を渡り歩いた。
ガス溶接、高圧電気、医療機器の製造管理──どれも、一歩間違えれば大きな事故につながる現場だった。
「自分のケツは自分で拭く」という感覚を、きれいごとではなく、生き残るための前提として叩き込まれたように思う。
失敗したら誰かのせいにするのではなく、まず自分の手元と判断を見直すところから始める。

30を過ぎてから、英検準2級を取ったこともあった。
中学の英語で躓いたままの自分が、もう一度英語に向き合おうと思えたのは、震災のときに多くの支援をしてくれた台湾への「ありがとう」を、自分の言葉で伝えたいと感じたからだった。

こうして振り返ってみると、自分の周りで強く惹かれてきた人たちは、肩書きやスペックではなく、「自分の足で立とうとしているかどうか」で共通していたような気がする。
登山者も、アウトドア好きも、現場仕事の仲間も、そしてかつて好きになった人も。
誰かの用意したレールの上を疑いなく走るのではなく、一度立ち止まって「本当にこれでいいのか」と自分に問い直しながら、それでも前に進もうとする。
そんな姿に、どうしようもなく胸を掴まれてきた。
結び 自分のハンドルを握り続けるということ

焚き火が小さくなり、最後の炎が薪の隙間で揺れている頃、友人が静かに言った。
「お前も、ちゃんと自分のハンドル握ってきたよな」
その言葉を聞いたとき、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
自立とは、誰の手も借りないことではないと思う。
自分の命の重さを引き受けながら、同時に相手の命の重さも想像しようとする、その姿勢のことかもしれない。
もし今、用意された幸せにどこか物足りなさを感じていたり、自分の価値がよく分からなくなっていたりするなら。
ほんの少しだけ、不自由な場所に身を置いてみるのもひとつの方法かもしれない。

高級レストランで頼む料理ではなく、自分の手で火を起こし、雨の音を聞きながら沸かした湯で一杯のスープやそばをすする。
そのとき、指先や胸のあたりに、微かな「手応え」のようなものが戻ってくるかもしれない。
それが、自尊心というものの、ささやかな正体のひとつではないか。そんなふうに感じている。
遠回りの途中にいる者同士として、泥だらけになりながらも自分のハンドルを握ろうとするあなたに、どこかこの焚き火の夜の感覚が重なってくれたら、嬉しい。
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